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SANJO-SYOUTETSU ASSOCIATION

三条市における鐵のルーツ

島根県安来市和鋼博物館副館長
安来市教育委員会文化振興課主査
三宅 博士

現在安来はヤスキハガネの生産地として、国内はもとより海外にも優れた特殊鋼を供給し続けている。このことから安来の製鋼業の歴史は古いものと思われがちであるが、これは意外と新しく、近代に入ってからのことである。
では、はじめにこの地がどのような経緯によって特殊鋼の生産地となりえたのか、そして全国の金物生産地の中でもとりわけ越後三条との交渉の接点ができ、以後どのような契機によって関わりが深まっていったのか、製鋼業の起源とも言えるわが国の製鉄の開始と中国山地のたたらの歴史を概観しながら探ってみることにしよう。

天秤吹子
昔はこれを使い炉に空気を送っていた
たたらの操業

和鉄の集散地から鋼生産地へ

安来の南に連なる中国山地は、古くから良質でかつ豊富な砂鉄を原料としたたたら製鉄が盛んな地帯で、近世の後半には日本列島内の和鉄の総生産量の8割を占めたとされている。
山陰のほぼ中央にあって、中海に面し波静かな天然の良港で知られた安来港は周辺山間部のたたらで生産された和鉄の積み出し港として、ときには奥出雲や伯耆(ほうき)産の和鉄をも扱い繁栄を極めた歴史を持っている。
しかし近代になると、新政府は重工業の発展を目指し、鉄鋼生産の近代化をヨーロッパの高炉を用いた近代製鉄法に求め、その導入を図った。近代製鉄法の導入は鉄鋼の量産に伴う安価な流通を促し、それまで国内独占とさえ思われたたたら製鉄を衰退させる結果となった。
これに伴って出雲の東の玄関口として、また和鉄の集散地であった安来の繁栄に陰りが見え始める。これに危惧を感じたたたら経営者数名によって、安来の港町の一角に明治32年、[雲伯鉄鋼合資会社]が創立された。この社名は出雲と伯耆それぞれの出資者の出身旧国名の一字ずつをとって命名されたものである。
以後組織や社名を変えながら1世紀、今日の日立金属株式会社安来工場へとその伝統と技術は引き継がれてきた。
このように逸早く集散地から生産地へと変身を図りえた背景には、かつてのたたらで生産された和鉄が全国各地の金物生産地に供給されていた長い歴史や世界的にも著名な日本刀剣の素材が、当地方の良質の砂鉄を原材料としたものであったということなどを考えあわせると、砂鉄を根幹とする生産体制の確立は他に変えがたい選択肢であるとともに、必然的であったと言うことができよう。

以下、「列島内の製鉄の開始」「中国山地のたたら製鉄」「越後三条と安来」の順で記していくことにしよう。

最高品質の玉鋼 安来港の風景(玉鋼縁起)

列島内の製鉄の開始

列島(まだ日本の国名はない)に住む人々がいつどのような形で金属にめぐり合ったのであろうか。
今のところ1955年に調査された熊本県玉名郡天水町の斎藤山貝塚出土の手斧などがその早い例で、その時代は縄文時代末から弥生時代初頭と考えられる。この頃の金属は大陸から様々な文物とともに伝えられたもので、量も少なく貴重品であったと推定される。この頃の刃物といえばほとんどが石器で、その素材である黒曜石などは打ち欠くと鋭い刃先が得られ、優れた切れ味を発揮する反面脆い。これが金属とは大いに異なる点である。当時の鉄が現在の高い精度の熱処理を経た刃物の切れ味には遠く及ばないものであったことは言うまでもないが、石器にはない粘りと鋭さが共存し、しかも研磨することによって切れ味は再生される。しかも独特の輝きを見せる物質を人々が手にした時の驚きは、溢れるばかりの金属に囲まれて生活する現代と比較すると想像を絶するものであったに違いない。
その鉄が列島にもたらされ、さらに普及するいきさつは以下のように考えられてきた。

  第1段階・・・鉄器を大陸から輸入して使用した時代
  第2段階・・・鉄器を作るための素材を輸入して鍛冶加工した時代
  第3段階・・・鉄を列島内で生産し、鉄器を鍛冶加工した時代

第1段階については縄文時代末から弥生時代初頭であることは前述したとおりであるが、第2段階は第1段階とはさほど時代差は開かないものと考えられる。

ところで問題となるのは第3段階の列島内で鉄の生産の開始の時代がいつかということで、これについては未だに結論は得られていない。
この時期をめぐって、研究者の間で一説には6世紀代とするものと3世紀代とする説がある。そのうちの6世紀説は、考古学的調査によって古墳時代後期を中心とした時代に、製鉄炉や炭竈、さらに鍛冶に関する遺跡の急増傾向がみられ、それらを遡る明確なものがないことを根拠として、列島内における製鉄の開始をその頃に置こうとするものである。
一方3世紀代を列島内の製鉄の開始時期とするのは、広島県庄原市戸の丸山遺跡、同県三原市小丸山遺跡を根拠とするものである。とりわけ小丸山遺跡のSF1号炉は鍛冶炉と規模が近似することから、これまで鍛冶炉と認識されているものの中にも製鉄炉が存在する可能性があることを主張するものである。
世紀に製鉄が行われていたことは多くの研究者が認めるところであるが、さらに遡る遺跡が存在するか否かということが問題とされているのである。つまり列島内で製鉄遺跡が多数見つかる6世紀を待たずして、4世紀の大形古墳に大量に武器などの鉄器が納められている例や弥生時代後半には全国的に石器の減少化などがみられ、小規模な鉄生産が既に開始されていた可能性もすてきれないものがある。
ところで、中国山地の古代製鉄遺跡では山陽側では鉄鉱石を使用した例が目立つ。これに対し、山陰側では鉄鉱石を使用した例は今のところ聞かず、砂鉄を使用するものが多く知られる。ここにも地域的特徴がみられる。6世紀とされる島根県邑智郡今佐屋山遺跡例などからすると砂鉄を用いた、後のたたら製鉄の萌芽がこの頃にあることをうかがわせる。
古代の列島内では、その開始をいつの時代にするかは別として原料に鉄鉱石、砂鉄いずれを使用するにせよ製鉄遺跡の分布をみると6〜7世紀代に大きな画期があったことは特筆すべきことである。

天平5年(733)成立の『出雲国風土記』に中国山地の鉄に関わる記事がみられる。
飯石郡の条に「波多小川 源出郡家西南廿四里志許斐山北流入須佐川 鐵 有」「飯石小川 源出郡家正東一十二里佐久禮山北流入三刀川 鐵 有」
仁多郡の条に「横田郷 郡家東南廿一里古老傳云 郷中有 田四段許形聊長隧依田而故云う 横田即有以上諸郷所出鐵堅 尢堪造雑具」と記されている。

飯石郡の例がいずれも川に関連して記されていることから川の岸辺に沈殿した川砂鉄の存在を示唆するものであろう。また仁多郡の例は実際に製鉄や鍛冶が奥出雲で行われていたことを示す記事といえよう。
世紀以降、古代から中世にかけての列島内の製鉄遺跡の分布はほぼ全域に分散した形で認められる。おそらくそれぞれの地域で天然資源を利用する小規模な生産体制があったことが知られる。しかしその後、資源が乏しい地域と良質の鉄資源が豊富で施設や装置、さらに技術的改良の試みられた地域との格差が生じ、遺跡の分布に若干の偏りが認められるようになる。

ヒ(けら)
たたら製鉄で出来た大きな塊


中国山地のたたら

中世末になると、その分布密度は中国山地と東北地方に集約された形となる。
とりわけ中国産地に製鉄遺跡が集約される形となったのは、おそらく良質の低チタンの砂鉄が豊富であるという理由とともに、中世以後広汎な物資の流通機構が整備され、それに乗じて和鉄も移動したことを伺わせる。したがって製鉄遺跡があたかも自然淘汰された形となったものであろう。
この頃を境として中国山地の和鉄生産量も全国的にも抜きん出たものとなっていく。
当地の製鉄技術の発展過程は時代を追って、地下構造が小規模なものから精緻で大がかりなものへ向う変遷によって理解することができる。この地下構造の変遷は炉庄への防湿と保温効果を高めるための不断の工夫であった。地下構造の発展は炉の大型化をめざしていたと推定され、これはいうまでもなく、生産量の増を目標としてのことであった。これに伴い送風装置としての鞴(ふいご)の改良も並行して試みられたのであろうと想像される。天秤鞴は地元の文献資料によれば元禄4年(1691)にすでに使用されていたことが知られている。製鉄工房の構造は、これらの諸施設・天秤鞴など諸装置との機能的調和がとれた時はじめてその規模にみあった最大限の生産高が得られることとなる。例えば炉をただ大きくしただけで、充分な送風が行われなかったとするならば炉内の温度が上昇しない事態が生じる。近世の当地のたたら工房の炉及び地下構造がいずれもその規模が近似している事実は、送風装置である天秤鞴と施設との調和が最大限に至ったことを示していると判断される。これが中国山地のたたら製鉄工房の完成された姿ということができよう。
この完成した形態を俗に永代たたらとよんでいる。
この永代たたらとは同じ場所で製鉄作業を営むことを意味する呼称である。これに対しそれ以前の製鉄工房は俗に野たたらと呼ばれてきた。永代たたらとこの野たたらとの大きな相違点は以下の諸点である。
野たたらとは原料の砂鉄や燃料のたたら炭を求めて、一定の場所に定着せず、工房自体が移動したとされている。したがって、地下構造も小規模でかつ簡易なものであった。つまり小規模であったからこそ移動も惜しみなく行えたと想像される。
一方永代たたらの工房は別名高殿と称されるもので地下構造の構築に際しては経営者数世代の悲願を念じ、巨額を投じて約100日間薪を燃し続け、防湿保温のための作業を完了する。また高殿を中心としてそこに働く職人や家族が住まいする集落が形成される。この集落の形成は物資輸送の利便性を考慮したものであった。
天明4年(1784)伯耆国のたたら経営者であった下原重仲の著書『鉄山必要記事』には高殿と表記して「たたら」と読ませている。現在「たかとの」と読むことが多いが、これは大きな建物という意味とも、神を祀る「神殿」が転じたものともされる。

いずれにしろ内部はたたらの守護神金屋子神を祀り、神聖な空間とされている。
上屋は押立柱という4本の主柱によって支えられ、その中央に炉を挟んで天秤鞴が設置される。壁際にはたたら炭の蓄積場所「炭町」、砂鉄を置く「こがね町」などが配置される。かつては一旦たたらの操業が開始されると三昼夜不眠不休の過酷な労働が続いた。ここで全体の指揮をとるのは村下と呼ばれる技師長で、伝えによれば操業を三度失敗すると追放されたといわれるほどその責任は重大であった。したがって彼の持つ技術は門外不出一子相伝とされた。たたらの操業に使用する用具はいずれも木製のものが多い。これは長時間の重労働を考慮して軽量化を図ったものとして工夫のあとが各所に伺える。
このような施設の中で行われる過酷な作業の結果として和鉄が生み出される。たたらで生産されるものには炭素量2.1%以上の銑鉄と1〜1.5%前後の鋼に大別され、これらはまとめて和鉄と呼ばれることもある。
これらは炭素量など不揃いの部分が多いため、高殿付設の大鍛冶で鍛錬され延棒状となった包丁鉄、また鋼は人頭大から拳大に砕いたものを木箱詰めとして出荷される。中国山地にどれだけたたらなどの施設が営まれていたのか、寛政3年(1791)の金屋子神社の勧進帳によるとたたら工房78ヵ所、大鍛冶97ヵ所が確認できる。
これらの施設から和鉄は馬の背に揺られ街道を下って、町の鉄鋼問屋に運ばれた。一頭の馬に乗せられる量を一駄といい、約120キロであった。
鉄鋼問屋を経由して船積みされた和鉄は、日本海航路をたどり刃物生産地へと運ばれる。


昔はこれで鐵を馬に乗せ運んでいた
鉄問屋の国(玉鋼縁起)


越後三条と安来

越後三条は新潟平野のほぼ中央、五十嵐川と信濃川が合流する位置に開けた地方都市で、日本屈指の刃物産地である。この刃物産地の起源は、寛永2年(1625)から三条城に在住した代官大谷清兵衛が貧農救済のため、江戸から釘鍛冶の職人を招き、それを奨励したものという話が伝えられている。和釘は刃物と違って、製造工程も単純で農村の副業として十分成り立つものであったのであろう。
しかしこの奨励政策は近世の職業統制の厳しい中では、農業から鍛冶専業への転職は規制が大きすぎて、農家の副業とはなり得ても、専業集団を形成するまでには至らなかったと考えるのが自然であろう。

それより若干時代の下る万治元年(1658)の『三条町検地帳』によれば「鍛冶町」の町名が見えており、この時期には確実に鍛冶の専業集団が形成されていたことが伺える。これが現在の三条の刃物生産の核となるべき専業集団として発展した可能性が大きい。そして、ここがその集団の形成に適していた最大の要因は、鍛冶に不可欠な木炭や鋼の搬入が信濃川・五十嵐川の水運を利用して容易にできたことである。
さて出雲と越後三条とが和鉄を介して交渉が始まるのは何時のことか、確たる証拠があるわけではないが、越後に出雲崎という地名があって、これは古代に出雲族が来て開拓したところとも、また出雲から和鉄を海路陸揚げしたことに因み、そのように呼ばれるようになったとも伝えられている。このような伝承を耳にすると遠く距離を隔てていても、古くから浅からぬ関係があったことが想像される。
ところで寛永から天和年間(1624〜1683)にかけては越後の新田開発の最盛期で、新田開発面積の85%を占めるとされている。これに伴い開発用農具などの需要が急増したものと推定される。一方寛文12年(1672)河村瑞軒によって秋田、新潟から日本海沿岸を下関、さらに瀬戸内を経由して上方に至る西廻り航路の開発がなされた。その帰り荷として出雲のたたらで生産された和鉄が船積みされた。和鉄などの重量物は底荷として積み込むことによって船が安定することから重宝され、商品としても流通するものであった。

以上のように西廻り航路の確立と越後の新田開発事業、そして出雲のたたら製鉄も時を同じくして最盛期を迎えることとなることが特に注目される。三条で加工された製品は列島を横断するかたちで越後から当時の大消費地である江戸へと搬送されたのであった。
これまで前近代の越後三条と出雲との関係について記したが、近代以降はたたらで生産された和鉄ではなく、近代的工場の中で量産されたヤスキハガネがその絆の後を受け継ぐ形で供給されている。素材生産と加工という二種の産業は、距離を遠く隔てながらも互いに密接不可分の関係をもって続いてきた。その歴史は車の両輪に例えれば鋼という主軸を介して大地にしるされた轍のようなものということができるのではなかろうか。

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